2013年10月6日日曜日

当時「あの世」について考えたこと

 1987年は「救世の法三部作」が出版された年でもありました.6月に「太陽の法」,8月に「黄金の法」,10月には「永遠の法」といった具合です.最初、私は霊言集ばかり読んでいたのですが,だんだん読む本がなくなっていったときに,やはり著者である大川隆法の「理論書」にも手を出し始めることになるのは自然なことでした.
 最初に手に取ったのは,「永遠の法」です.これは死後の世界(あの世,霊界)について述べたものです.幸福の科学では「この世」を3次元と呼び,「あの世」を4次元から9次元の世界まで,たくさんの階層に分けています.そして、人間は死後、生前の心と行いに応じた世界に還ると説いていました。
 私はリアルタイムになされる霊言によって、あの世のことをある種のリアリティを持って感じていましたので、その頃はこの本の内容をずいぶんすんなりと受け入れていたかなと思います。ただ、縦、横、高さの3つの次元に加え、第4の次元を「時間」としたのは良いとしても、第5の次元を「精神」、第6の次元を「神理知識」、第7次元を「利他」、第8次元を「慈悲」、第9次元を「宇宙」・・・といったような精神的な要素を当てはめたことにはやや違和感を持ちました。精神的なものはその精神を持った人間が頭の中に思い浮かべるものであって、それが人間の外部にも存在するかのように語るのはいかがなものか。それを果たして本当に「空間」の説明に使えるのだろうか?
 ところが様々な霊言集に登場した霊人の言葉によれば、霊界とは精神の世界であり、見る人によって見え方が異なる主観的な世界であるということでした。そうすると、第5次元以降を精神的な要素で表現するためには、精神的な現象、例えば「想念」とか「表象」、「夢」といったものも、具体的な現実でなければならないのではないか。
 唯識には「一水四見」という話があります。人間にとって川に見えるものは魚にとっては住処であり天人にとっては水晶の床、そして地獄の餓鬼にとっては燃え上がる膿の流れに見える、と。つまり、霊界は主観的な世界だけれども、存在しないわけではなく、必ず認識できるのではないか。もしそうなら、いつの日か、あの世を科学的に解明できる日が来るのではないだろうか、と考えたりしました。あの世の探求と解明―それは、21世紀の大きなテーマになるのではないか?と期待が膨らみました。
 シュタイナーの「いかにして超感覚的世界を認識するか」という本などを一生懸命読んだこともありました。やはり霊界を認識するためには、この世に囚われたものの見方から離れて、あの世を見ようとする訓練をしなければならないのではないだろうか。そのためには、高橋信次先生の言うように「心の曇り」を取り払い、神の光が差してくるような心理的状態になる必要がある。そうなろうとして、家で独りになり、深呼吸をして、反省・瞑想の真似事をしてみたりもしました。
 私は、亡くなった祖父が火葬場で焼かれるのを見ていました。人間の最後の姿は空に立ち昇る煙と、白くなった骨と灰。それで全てが終わってしまうのだろうか。それはあまりにも寂しすぎるのではないか。もしあの世があり、祖父は死後も霊として生き生きと生活し、5次元の世界で幸せに暮らしているとしたら、そのような世界観のほうが楽しくはないだろうか。今まで誰もなしえなかったあの世の証明を、彼はしようとしているのかもしれない。このように考えて、私はますます大川隆法の本を読み進めていきました。

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